2004/11/24

殺人理由がオタク作品のせいだとされる度に思うこと

なんだか、割と理解不能の事件、つまり「わかりやすく怨恨」「わかりやすく金銭」みたいなんじゃない殺人事件というものは、まあたいてい「ゲームの影響」だとか「劇画の影響」だとか報道されて煽られる事が多い。


まあ、それに対する反論は色んな人が既にされているので私は行わないが、


「谷崎潤一郎の刺青を読んで感銘を受けて、女性を拉致監禁乱暴行為を行おうと思いました」

「そして僕は太宰治にも影響を受けているので一緒に死のうと思いました」


なんて犯人が出てきたら、世の中はどう反応するんだろうかと思う。


多分、創作と現実の区別がつかないバカ、という単純なる判断が下るのだろうか。そして、タニザキやダザイのせいにされることはないだろう。教科書からタニザキやダザイの名前が消えることもないのだろうと思う。


何でそうなるかというと、部分的にその死へと向かいやすい部分が作品の中に内包されている事は事実であるとしても、一方で「素晴らしい部分がある」と認められているからである。


そして、そういう作品であることを読み取れず、部分的に拾った行為こそが「文脈の読み取れないバカ」であると、つまり「そいつがバカなので有って作品がおかしいのではない」という判断が物静かに下される。


マンガやゲームにも、同じような判断を下す事は出来ないのだろうか。読んだ奴こそがバカなのだと、何故述べられないのだろうか。


しかし。


この、マンガやゲームへの冷たい風当たりが、単なる頭の固い自称教育者たちの理解の無さから来るものだけなのならいいのだ。いつか、時代が変わるにつれて、判断基準も動いていくであろうと思う。

それがもし「とりあえずマンガやゲームのせいにさえしておけば皆が納得するから、そうすれば面倒くさい分析とかしなくていいから、仕事が減るから、だからそういうことにしておこう」という意志が裏で働いて、それを暗黙の了解として皆で目をつぶっているいるのだとしたら、それは随分終わっている話だ。


そうでなければいいと、ただ単純に思う。

2004/08/08

この夏浴衣を着る方へ送る3つの戯言

「江戸川花火」「戸田花火」「神宮花火」などなど、花火大会ラッシュだったこの週末。
浴衣のお嬢様が、そこら中に溢れておりました。浴衣と言うのは不思議なもので、まず「あっ.........あの人私と同じ柄......」なんて思いをする事がまず有りません。よくもまあここまで色んな柄を生み出したもんだよと思うぐらい、沢山のバリエーションが溢れます。

というわけで、見る側も楽しい。
一人一人皆違う柄で、違う帯に、違う下駄を、違う髪型、違う体型にまとってそこら中を歩いているわけですから。ええなあ、かわいいなあと、オヤジモード炸裂でウヒャウヒャしますよねそりゃ当然のこととして。しかし何なんでしょうね浴衣って。何故こうも人を高揚させるのでしょうか。

まあ、そもそも浴衣着ている女の子を嫌な目で見る男性などほとんどいないでしょう。老若男女通じて、浴衣女性は受け入れられます。洋服だと、好みによって評価が分かれるというのに、最近流行のあのファッションは気に食わんだのなんだの言われるのに、浴衣に関しては浴衣であるというだけで皆さん合格点を出してきます。何故なんでしょうか。全く不思議です。

でも、かくいう私もウヒャウヒャしていますから、その1人であるんですけどね。


さて実は、着物・浴衣には、やけに人の着付けやらなにやらに大変煩い方が沢山いらっしゃいます。

まずは通称「お直しオバ」とも呼ばれる人たちで、突然近づいてきて人の着付けに難癖をつけて直してきたりする人です。
その次に、「私はあんなみっともない着方はしないわよ。」といわんばかりの人を殺せそうな冷たい目で、ねめつけるように浴衣女性をじろじろ見る「着付け技術至上主義オバ」というのもいます。

こういう人たちは、浴衣に関して非常に煩い。そもそも、浴衣は寝巻なんだからそんなものを着て電車に乗るなんておかしいとかいうトークから始まります。そして、浴衣はやはり藍染めがいいもので、最近の化学染料モノやプリントものなどは言語道断、日本の文化を馬鹿にしているとまで言い切ります。そして今度は着付けの話になり、衿元が決まってない、衣紋(うなじのところ)が抜けてない、背中心がずれている、おはしょりがぐちょぐちょ、裾回りが広がっている、帯がゆがんでいる、或いは付け帯である、などなど、細かくチェックしてくる。

怖いです。

私は長年のあれやこれやで着物を着るのに慣れてしまいましたので、その怖い人たちのチェックを潜り抜けられるような着付けをして外を歩けるようになりました。そして、そんなおばさんに絡まれても撃退できるぐらいの返しトークも実装しました。
が、その私でもあの視線は怖い。
じろじろと見られた揚句「何だ、この子はちゃんと着ていてつまんないわ」といわんばかりの勢いで視線を外される時のあの恐怖。なれている私でさえこうですから、初めて浴衣を着て、「ちゃんと着られているのかなあ」なんて不安に思っている方が感じる恐怖をやいわんや。


って言うか、あんたそんなえらそうに言うけど、普段はもしかしてケミカルウォッシュの先細のしかも折り返しジーンズで、しかもTシャツ中に入れて外歩いてんじゃないの、だっさー、と言ってやりたくなったりします。

いいませんけどね。


いいじゃん、好きに着ても、と思っています。ミニ浴衣もありなんじゃないかと思っている口だったりしますので。
大体、一年に一回ぐらいしか着ない浴衣が上手く着られるわけがない。しかも、和服の所作に慣れてない人が、一年に一回のイベントの時だけ上手く動けるわけが無い。着崩れるのは当たり前。
ただ「綺麗に着ている人と、そうでない人が見分けられる」と世界が広がります。だから、その見わける力は備えたほうがきっといい。
それさえ備えていれば、自分がどれぐらいまずいのかというのが、おぼろげながら見えてくるんです。そしたらやっぱり女の子ですから「きれいにかわいく着たい」と思うのは当然で、結果「綺麗に見える方法」というのを探索しますよね?それを繰り返す事で、綺麗な浴衣姿が年を追って身に付いて行く。それでいいじゃないかと私は思っています。

むしろ、日本文化だ何だと目くじら立ててぎゃぎゃー言ったり、後ろ指差したりする方がみっともない。そもそも浴衣は日常着だったわけですから、日常で学んでいってもいいわけです。躍起になって教室に通ったり、本を読みまくる必要が必ずしもあるとは思えないのです。花火大会ですれ違う、自分以外の浴衣の女の子を見て「ああいう着こなしをしたい」「ああいう所作をしたい」と思って、それを実践しようと努力する、実生活の中で身につけるレベルでいいんじゃないかと思うのです。


が、ですね。

今年、その寛容な私でさえも仰天させられる浴衣の方にかなり沢山遭遇してしまいました。というわけで、浴衣を年に一回の花火やお祭りぐらいでしか着ない皆様へ送る
「どんな着方をしてもいいですがこれだけは頼むから守ってくれ」
講座をここでちょいと展開したいと思います(誰が読むわけでもないのだが、自己満足)。

■男女共通篇
1)合わせを逆にしない
■女性篇
2)下着が透けない、見えないようにする
■男性篇
3)帯は腰と腹に巻く。ウエストじゃない。


この3つだけです。

まず(1)。これはですね、逆にすると死人になっちゃうわけです。お棺に入ってる人と一緒です。ああもう、それはいけません。マジでダメです。本当に、心のそこから言います「頼むからこれだけは本当に気をつけてくれ」。ちなみに、左胸の方に来る布地が上です。覚え方としては「右手が懐に入る着方」です。

洋服だと、男性と女性であわせ方が逆に仕立てられています。だから混乱するようなんですが、浴衣の場合は男女共通です。

そして浴衣を着る時は、どうしても鏡を見ながら、着付け本を見ながらになります。そうすると、参考にしているものは自分と逆だったりするわけですね。だからたまに間違っちゃう人が出る。というわけで、最後は鏡からも本からも離れて自分の姿を見て、右手が懐に入るかどうかを確認しましょう。逆だったら勿論着替えなおしですよ(笑)。

次に(2)ですね。まずですね、浴衣と言うのは想像以上に生地が薄いものです。Tシャツよりも薄い。だから、下着はあっけなく透けます。紺地や黒地の色の濃いものであれば大丈夫ですが、まあその他のものは要注意。まず、パンツの線が透けます。白の薄手のパンツやスカートをはくときは下着に気をつけるのであれば、浴衣のときもそうしてほしい。いやむしろ、浴衣のときこそ気をつけてほしいと思うわけです。
それから、ブラジャー。女性の浴衣には身八つ口というものがあります。これが出来た謂れを語りだすと長いのでここでは省きますが、ともかく脇の下ががばっと空いているわけです。ここからですね、ブラジャーがモロに見えちゃうんですよ、着付けによっては!マジで!しかも、着慣れていないほど見えちゃう可能性が高い!

もうね、だめです。彼氏と仲良く手を繋いで浴衣でデート、二人の世界観が出来上がっている中、彼女は周辺にパンツの線を見せ、ブラジャーを脇からちらつかせている。


い け ま せ ん 。


あーもー、おじちゃん参っちゃいます。


とにかく、浴衣と言うのはそういうものなので、気をつけていただきたいわけです。地肌に直接着るほどそうなる可能性が高いので、一番のお薦めは「浴衣下」という浴衣専用の下着を身に着けることです。これでパンツは透けないし、ブラジャーも露骨に見えなくなるし、何せそいつが汗を吸うので浴衣も汚れないし、実はべとべとしないから暑くない。
まあ、それを買うのがめんどくさい、或いは持っていないというのであれば、最低でも外に響かないパンツをはいて、上にはキャミソールなりタンクトップなりを着ておきましょう。それで安全。はー、安全。おじちゃんも安心。


あ、後忘れてました。3つめの男子向けポイント!

ウエストに帯は巻くなと。カッコ悪いにもほどがあります。浴衣でカッコイイのは「古着系」です(笑)。腰履きです。お相撲さんのマワシの位置です。普段「だらしない」といわれる格好をしている方はそのままに。そうでない方は、浴衣のときだけは腰の位置でよろしく頼みます。マジで頼みますよもー。ウエストに巻いてOKなのはガキンチョだけです!

ちなみに、男性で浴衣の似合う体型と言うのは「腹が出ている人」と言いますが、やせていても背が低ければ(170cm以下ぐらい)いけます。いわゆる、昔の日本人体型ですね。よく、明治の頃の痩せた文豪の写真ありますね。ああいう感じです。それから、鍛えている人。つまり、筋肉がしっかりついている人ですね。そういう人は、身長関係なく実は似合います。腰が決まりますから。

つまり、似あわないのは「背が高くてやせっぽち」の人だけです。まあ、申し訳ないですが、そのゾーンにいる方は、太るか鍛えるかどっちかにしてくださいとしか言い様がないのです。


ついでなので女性の話もしておきましょう。浴衣は体型を隠すといいますね。但し、その体型とは「メリハリのなさ」を隠すのであって、そもそものヤセだとかデブだとかを隠すわけではないのです。浴衣で隠せるのはメリハリの無さのみ。

ヤセすぎさんに関しては、補正をすればいいだけなのでどうにかこうにかごまかせます。ガリガリの腕も足も外に出ないので、まあ痩せすぎさんには浴衣は結構いいかもしれません。まあ、暑いと思いますが....。しかし、おデブさんは要注意。洋服の時よりもむしろ太って見えます。マジです、これは。「ぱつんぱつん」な感じがリアルに出ちゃいます。ドーンとした存在感がでちゃいます。いやですそんなの、女性ですから。
というわけで、太っている事を気にされている方が「体型を隠す」ために浴衣を着ると言うのは、必ずしも正解だとは限らない事だけは念頭に入れておきましょう。



浴衣を難しく考える必要は全くないと思うんです。でも、洋服と同様に「これやったらカッコ悪い」「これやったらダサい」「そんなんだったらみっともない」って言う領域が存在します。着るだけで大変だから、そんなの気が回らないかもしれないけれど、でもそれを逃したら本当に、涙ちょちょ切れものの姿になってしまう。洋服だと着こなしを気にするのに、浴衣になったら気にしないって言うのはやっぱり変だと思うので、必要最低限はどうにかしてほしいなあと思うのです。

大前提として、浴衣の合わせ方。そして女性の場合は下着。男性の場合は帯の位置。

そしてもちろん洋服同様、「こう着たらカッコイイ」「こう着たらかわいい、綺麗」っていうのも存在します。だから、とりあえず「着られるようにはなった」という人が次段階として、「よりよく着たい」と思うようになるといいなあ、と密かに思っている私です。


え、だって、そりゃ街中に見栄えのいい人が溢れている方がいいじゃないですか(笑)。ダメですか?

2004/04/02

回転ドアへの疑問

六本木ヒルズで小学校入学を目前にした男の子が、回転ドアに挟まれて亡くなってしまった事件があった。これにより回転ドアに関わる問題が色々取り上げられている。

まあ、ここではそれについて細かく取り上げたりはしないが、私は私なりに常々回転ドアの存在に疑問をもっていたのだ。

そもそも、回転ドアでなければならない理由、を明確にもっている建造物は、どれぐらいあるのだろうか。今の所東京ドームぐらいなんじゃないかと、私の頭では思いつけない。あれは、空気圧の差でドームを膨らましているものなので、自動扉のような開けっ放しになってしまう可能性はNGなのである。限りなく常に密閉状態に近い回転ドアこそが相応しい、という理由は非常に理解できる。

しかし、その他の建物はどうなのだろう?
決定的な必要性は無いのではないだろうか?


私がまだ幼稚園生ぐらいだった頃、つまり亡くなった男の子ぐらいの年齢の頃は、怖い物といえば正に回転ドアと下りのエスカレーターだった。

子供には、あのスピードとタイミングは難しい。まるで、大縄跳びの遊びをやっているかの気分で、タイミングを取りながら「せーのと」挟まれないように利用していた記憶がある。

ごく普通に回転ドアに対応できるようになってからは「ああ、私も大人になったな(笑)」と思ったぐらいなのだから、恐怖感はそれなりだったと思う。


そして、バリアフリーと言う観点で考えた時。
最近はまあ広い回転ドアも出てきてはいるが、そもそも車椅子で入るのがスペースとして非常に難しい。さらに、想像でしかないのだが(私自身が車椅子利用者ではないので)、例え車椅子が入るスペースが有ったとしても、あのスピードとタイミングに合せてドアに入るということが、車椅子では難しいのではないかと感じるのだ。

ドアを自分で開けなければいけない手動ドアよりはましなのかもしれないが、その点微妙である。



それでも、回転ドアを選択する理由はなんだろうか?

1つは、電気代が考えられる。

もう1つは、空調の問題。手動のドアはともすれば開きっぱなしになりやすく、外気が流れ込んでくる。それ故に建物内の環境を一定に保つための空調に負荷がかかる。これはまあ、電気代にもまた繋がっていくだろう。

それぐらいしか私には思いつかないのだが、ほかにもっと、何かすごい要因があるなら教えて頂きたい所だ。

六本木ヒルズの事件のおかげで、回転ドアに指摘されている問題と言うのがいろいろ明らかになってきている。そしてそれは、施工の時点から、多少懸念されていた事項であると言うことも分かってきている。そもそも東京とは1996年に回転ドアは危ないと言う答申を出していたらしいし(http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20040402ic06.htm)。

それでも、回転ドアを設置するのは何故なのだろう?そのメリットこそを、今私は非常に知りたいと思うのだった。

2004/03/26

財布の反抗期

仙台に出張に行った。仕事が終わり同行者と別れ、友人と会うまでお茶でもするかと店に入ろうとして、そして事態に気づいたのだった。



財布が無い



まず思いついたのが「また家に忘れてきたか」ということだった。(ちなみに、仙台までのチケットは既に買ってあったし、訪問先までのタクシー代は同行者が払ったので、財布を開く機会が無かったので気づかなかったのだ。)今月3回目の財布なし生活だよ......と、落ち込みつつ一応落としたことも視野に入れて、仙台駅の拾得物センターに届出に行った。が、しかし見つからなかった。

前日に立ち寄った店に電話をしてみるが、やはり財布の忘れ物は無いらしい。行きのタクシー会社にも電話をしてみるが無いらしい。いくら鈍い私でも、財布ぐらいの重さを落としたら気づくので、それら3つに無いとなると、やはり通常通り家で財布がお留守番パターンだな、と思って情けなくなった。

結局友人に夕飯代を出してもらい(今度おごるよ......マジで)すごすごと東京に帰って、確認したら家にも無かった。

しまった、これは完全に無くしたパターンだぞ、と気付き慌ててカード類を止めまくる。
そして警察にも届け出る。



ところで、翌日から何が困ったって「物理的に財布というものが無い」ということである。変わりの財布なんて持っているわけもなく、生でお金をじゃりじゃり持ち歩く羽目になり、そうなると小銭の状況が読めない。

気付くと1円玉が13枚ある。何なんだ。

お店に入れば、まるで外国人観光客のようにカウンターに小銭をじゃらっと広げて端数を払う。まったく、うら若き女性(ツッコミなしで)のやることじゃ有りませんな。

そして、JRからも警察からも連絡は無い。
これはもう完全に戻ってくることもないな、ああ、免許証と社員証は再発行だなめんどくさいなと、銀行もクレジットカードも届くまで何もできないしなと、ただただ落ち込むしかない日々。


そんなある日、一通の封書が届いた。



「八戸警察署」



まず、私は何をしたのかと怯えたのは言うまでも無い。

八戸で自分の知り合いが私宛の遺書を残して自殺したとか、八戸で非業の死を遂げた人物がたまたまわたしの名刺を持っていたとか、何の利益も無いのに私の名を語ってサギを働いているやつがいるとか、そういう想像ばっかりが頭を巡り、一瞬開けないまま捨ててしまおうかと思ったぐらいだ。いや、火サス脳もすぎると言われるかもしれないが、想像して欲しい、突然警察から封書が届いた心境を。絶対怖いはずだ。


とはいえやばい書類ではまずいので、恐る恐る封筒を開いてみると、書面にはこうあった。


「貴方の住所が記載してある財布と思われるものを拾得物としてお預かりしています」


それは、思しきものではなく、財布そのものだろう。
しかも、財布には住所は書いてない。
住所の入っている免許証が入ってるだけだろう、八戸警察署。

と、突っ込みを入れつつも何故八戸なんだろうと悩む。

多分、行きの新幹線がはやてだったから、新幹線内で落として、そのまま財布だけ八戸に行ってしまい、拾ってくれた人が警察に届けたんじゃないかという推測をする。

ああ、この寒いのに財布も大変だな、八戸なんか行っちゃってとブツブツ言いつつ、いやでももしかしたら、一瞬でも財布から意識を話した持ち主に大層怒り新党で、反抗心がメラメラと燃え上がり、いっその事遠出してしまえと、家出気分で八戸まで言ってしまったのかもしれない。それであれば大変申し訳無いことをした。


とかなんとか妄想している場合ではなく、八戸警察署に連絡を取ると、なんと全額のこっていることが判明。すばらしい、なんていい人なんだ、拾ってくれた人!礼をせねば!と思って、聞いてみると「JR津軽今別からの拾得物に入っていただけですので、どなたがというわけではないようですね。」といわれる。


ドコ、ソレ。


とりあえず、私の持物は、私が行ったことのない土地へ行ってしまっていたようだ。戻ってきたらさも偉そうに自慢気な顔でもするのだろうか。
まあ、表情読み取れないけどね。



ところで余談だが、八戸警察署は郵送代として郵便小為替を遅れば、財布を郵送してくれるという親切な警察署だった。かつて私の友人は、福島で財布を落として、警察に確保されたものの「本人が直接取りに来い」の一点張りで、交通費諸々考えて泣く泣く諦めたということがあったのだ。もしやまた同じ展開かと怯えていたのだが、そんなことはなかった。


ありがとう青森県警。
ありがとう八戸警察署。
ありがとう津軽今別駅。
ありがとう拾ってくれた誰か。

2004/03/24

大人と子供の違いはどこか?

上司の上司、そして同僚と飲んでいて「大人と子供の違いはどこだと思う?」という話になった。

その日の私は、マナーを守れるか守れないかじゃないかと言った。

「ルールを守る」というのは、与えられたものを守るというものにすぎない。
言われた通りに守る、という表層的な行為だ。

しかし「マナーを守る」は、今自分が存在している空間において、周囲を不快にさせないためにどう振る舞うべきかという、自身の判断力を求められるように感じるからだ。
侵してはならない大事なものが何か、本質がきちんと理解できていないとできないことだからだ。


他のメンバーからもいろいろ意見が出た。
酒が入っていたので細かくは覚えていない。


そして、最終的には
「自己犠牲という観念があるかないかが境目だ」
という結論になった。

つまり、どんなに年をとろうとも、俺が俺がと自分のやりたいことだけをやって、後に続く者の事を考えないのは子供なのだと。


確かにそうだ、飲み会の参加者たちは酔っ払い回らない頭ではあるものの、一同納得した。


しかし一方で、今の時代自己犠牲ができる人間ほど割を食う時代だという現実もある。

そこらへん、どう折り合いをつけるか悩まなきゃいけないところが、どうも最近社会が病んでいる用に感じる部分なのかもしれないと思ったのだった。

2004/02/28

シリーズ物ネーミングには事欠かない

マイクロソフトが「Windows XPリローデッド」を出すんだとかいうニュースを見た。

「Longhornまでのつなぎに「Windows XP リローデッド」計画が浮上」
http://itpro.nikkeibp.co.jp/free/NT/NEWS/20040227/1/

「マジか」と思ったのだが、折角なので、というかこの先さらに延期されてXPが延命されそうな気もしてきたので、ネーミングをいろいろと考えることにした。


「Windows XP 王の帰還」
何かすごそうな予感はする。


まあ他には
-Windows XP 逆襲のApple
-Windows XP 柴又(笹塚?)より愛を込めて
-Windows XP ファイズ
-Windows XP Z ←もはやよくわからない
というものもあるかもしれない。


ところで一番嫌なのは
「Windows 95 リターンズ」
じゃないかと思う。

戻って来なくてよろしい。




2004/02/09

テツの時間

先日野沢温泉村に旅行に行った。
野沢温泉村という所は、公共機関だけで辿り着こうとしたら

・長野から野沢温泉直通バス
・越後湯沢から野沢温泉直通バス
・長野から戸狩野沢まで電車、戸狩野沢から野沢温泉までバス

という3つのパターンがあるが、本数的にもアクセス的にも一番楽なのが長野-野沢温泉のバスを利用することだ。


さてその日私は、野沢温泉から帰るべく、長野行きのバス停脇にある暖房付きのスペースで温まっていた。バスの時間が近づくにつれ、ぽつぽつと人が増え始める。
そして突如男子高校生15人がやってきた。
一瞬コワ!と思ったものの、明るくフレンドリーでまじめな高校生達だったので非常に好感が持てた。

そのうち、暖房付きスペースで一緒にバスを待っていた女性が「君達どこからきたの?」と話しかけ始めた。
「名古屋からです」と返答が返って来る。

それを聞いた男性が「名古屋だと、うーん、長野駅から大体3時間ぐらいでつくのかな? 結構これから掛かるんじゃない、大変だね。」と口にした。



その瞬間、高校生の1人がキッパリと


「いえ、2時間53分ですね」


とすかさず返したのだった。
吹き出さずにこらえた自分を、本当に自分で褒めたい。


オマエ、ぜっっっっっっっっっっっっっっっっっっったい鉄ちゃんだな、鉄ちゃんだろう、ああ、そうさ、そうにちがいない!間違えるわけが無いさ、その細かさ「ニジカンゴジュウサンプン」とな!

私は、そこから更なる話題の発展を期待したが、運悪くバスがきてしまったのでそれで終了となった。ああ.........日本、いたるところに鉄ちゃんあり。