2004/03/26

財布の反抗期

仙台に出張に行った。仕事が終わり同行者と別れ、友人と会うまでお茶でもするかと店に入ろうとして、そして事態に気づいたのだった。



財布が無い



まず思いついたのが「また家に忘れてきたか」ということだった。(ちなみに、仙台までのチケットは既に買ってあったし、訪問先までのタクシー代は同行者が払ったので、財布を開く機会が無かったので気づかなかったのだ。)今月3回目の財布なし生活だよ......と、落ち込みつつ一応落としたことも視野に入れて、仙台駅の拾得物センターに届出に行った。が、しかし見つからなかった。

前日に立ち寄った店に電話をしてみるが、やはり財布の忘れ物は無いらしい。行きのタクシー会社にも電話をしてみるが無いらしい。いくら鈍い私でも、財布ぐらいの重さを落としたら気づくので、それら3つに無いとなると、やはり通常通り家で財布がお留守番パターンだな、と思って情けなくなった。

結局友人に夕飯代を出してもらい(今度おごるよ......マジで)すごすごと東京に帰って、確認したら家にも無かった。

しまった、これは完全に無くしたパターンだぞ、と気付き慌ててカード類を止めまくる。
そして警察にも届け出る。



ところで、翌日から何が困ったって「物理的に財布というものが無い」ということである。変わりの財布なんて持っているわけもなく、生でお金をじゃりじゃり持ち歩く羽目になり、そうなると小銭の状況が読めない。

気付くと1円玉が13枚ある。何なんだ。

お店に入れば、まるで外国人観光客のようにカウンターに小銭をじゃらっと広げて端数を払う。まったく、うら若き女性(ツッコミなしで)のやることじゃ有りませんな。

そして、JRからも警察からも連絡は無い。
これはもう完全に戻ってくることもないな、ああ、免許証と社員証は再発行だなめんどくさいなと、銀行もクレジットカードも届くまで何もできないしなと、ただただ落ち込むしかない日々。


そんなある日、一通の封書が届いた。



「八戸警察署」



まず、私は何をしたのかと怯えたのは言うまでも無い。

八戸で自分の知り合いが私宛の遺書を残して自殺したとか、八戸で非業の死を遂げた人物がたまたまわたしの名刺を持っていたとか、何の利益も無いのに私の名を語ってサギを働いているやつがいるとか、そういう想像ばっかりが頭を巡り、一瞬開けないまま捨ててしまおうかと思ったぐらいだ。いや、火サス脳もすぎると言われるかもしれないが、想像して欲しい、突然警察から封書が届いた心境を。絶対怖いはずだ。


とはいえやばい書類ではまずいので、恐る恐る封筒を開いてみると、書面にはこうあった。


「貴方の住所が記載してある財布と思われるものを拾得物としてお預かりしています」


それは、思しきものではなく、財布そのものだろう。
しかも、財布には住所は書いてない。
住所の入っている免許証が入ってるだけだろう、八戸警察署。

と、突っ込みを入れつつも何故八戸なんだろうと悩む。

多分、行きの新幹線がはやてだったから、新幹線内で落として、そのまま財布だけ八戸に行ってしまい、拾ってくれた人が警察に届けたんじゃないかという推測をする。

ああ、この寒いのに財布も大変だな、八戸なんか行っちゃってとブツブツ言いつつ、いやでももしかしたら、一瞬でも財布から意識を話した持ち主に大層怒り新党で、反抗心がメラメラと燃え上がり、いっその事遠出してしまえと、家出気分で八戸まで言ってしまったのかもしれない。それであれば大変申し訳無いことをした。


とかなんとか妄想している場合ではなく、八戸警察署に連絡を取ると、なんと全額のこっていることが判明。すばらしい、なんていい人なんだ、拾ってくれた人!礼をせねば!と思って、聞いてみると「JR津軽今別からの拾得物に入っていただけですので、どなたがというわけではないようですね。」といわれる。


ドコ、ソレ。


とりあえず、私の持物は、私が行ったことのない土地へ行ってしまっていたようだ。戻ってきたらさも偉そうに自慢気な顔でもするのだろうか。
まあ、表情読み取れないけどね。



ところで余談だが、八戸警察署は郵送代として郵便小為替を遅れば、財布を郵送してくれるという親切な警察署だった。かつて私の友人は、福島で財布を落として、警察に確保されたものの「本人が直接取りに来い」の一点張りで、交通費諸々考えて泣く泣く諦めたということがあったのだ。もしやまた同じ展開かと怯えていたのだが、そんなことはなかった。


ありがとう青森県警。
ありがとう八戸警察署。
ありがとう津軽今別駅。
ありがとう拾ってくれた誰か。

2004/03/24

大人と子供の違いはどこか?

上司の上司、そして同僚と飲んでいて「大人と子供の違いはどこだと思う?」という話になった。

その日の私は、マナーを守れるか守れないかじゃないかと言った。

「ルールを守る」というのは、与えられたものを守るというものにすぎない。
言われた通りに守る、という表層的な行為だ。

しかし「マナーを守る」は、今自分が存在している空間において、周囲を不快にさせないためにどう振る舞うべきかという、自身の判断力を求められるように感じるからだ。
侵してはならない大事なものが何か、本質がきちんと理解できていないとできないことだからだ。


他のメンバーからもいろいろ意見が出た。
酒が入っていたので細かくは覚えていない。


そして、最終的には
「自己犠牲という観念があるかないかが境目だ」
という結論になった。

つまり、どんなに年をとろうとも、俺が俺がと自分のやりたいことだけをやって、後に続く者の事を考えないのは子供なのだと。


確かにそうだ、飲み会の参加者たちは酔っ払い回らない頭ではあるものの、一同納得した。


しかし一方で、今の時代自己犠牲ができる人間ほど割を食う時代だという現実もある。

そこらへん、どう折り合いをつけるか悩まなきゃいけないところが、どうも最近社会が病んでいる用に感じる部分なのかもしれないと思ったのだった。