2004/11/24

殺人理由がオタク作品のせいだとされる度に思うこと

なんだか、割と理解不能の事件、つまり「わかりやすく怨恨」「わかりやすく金銭」みたいなんじゃない殺人事件というものは、まあたいてい「ゲームの影響」だとか「劇画の影響」だとか報道されて煽られる事が多い。


まあ、それに対する反論は色んな人が既にされているので私は行わないが、


「谷崎潤一郎の刺青を読んで感銘を受けて、女性を拉致監禁乱暴行為を行おうと思いました」

「そして僕は太宰治にも影響を受けているので一緒に死のうと思いました」


なんて犯人が出てきたら、世の中はどう反応するんだろうかと思う。


多分、創作と現実の区別がつかないバカ、という単純なる判断が下るのだろうか。そして、タニザキやダザイのせいにされることはないだろう。教科書からタニザキやダザイの名前が消えることもないのだろうと思う。


何でそうなるかというと、部分的にその死へと向かいやすい部分が作品の中に内包されている事は事実であるとしても、一方で「素晴らしい部分がある」と認められているからである。


そして、そういう作品であることを読み取れず、部分的に拾った行為こそが「文脈の読み取れないバカ」であると、つまり「そいつがバカなので有って作品がおかしいのではない」という判断が物静かに下される。


マンガやゲームにも、同じような判断を下す事は出来ないのだろうか。読んだ奴こそがバカなのだと、何故述べられないのだろうか。


しかし。


この、マンガやゲームへの冷たい風当たりが、単なる頭の固い自称教育者たちの理解の無さから来るものだけなのならいいのだ。いつか、時代が変わるにつれて、判断基準も動いていくであろうと思う。

それがもし「とりあえずマンガやゲームのせいにさえしておけば皆が納得するから、そうすれば面倒くさい分析とかしなくていいから、仕事が減るから、だからそういうことにしておこう」という意志が裏で働いて、それを暗黙の了解として皆で目をつぶっているいるのだとしたら、それは随分終わっている話だ。


そうでなければいいと、ただ単純に思う。