NHKのブラタモリが好きでよく見ている。
東京近郊の土地探訪という番組テーマ自体も好きだけれど、そこに登場する「その土地(あるいはテーマ)の古い話題に詳しい人」にとても心惹かれている自分がいる。日常的には単なるオタク扱いされているだけの人かもしれないなと思わないこともないが(笑)、実に生き生きとその土地(あるいはテーマ)に対する愛情をダダ漏れさせながら知的に語る姿には、ただただ幸せのおすそわけをもらっているありがたい気持ちのみが生まれるのである。
さて、先日のブラタモリでは「江戸の盛り場〜吉原編〜」というテーマを扱っていた。そこに登場した吉原の研究者(本来は日本の近世文学その流れで吉原文化にも詳しい)である渡辺憲司さんという方は、とても愉快で、実に楽しげに風俗歴史を語り、その語り口からは活き活きとした当時の様子が浮かんでくる素敵な専門家だったのである。紹介では立教新座高の校長先生ということで、こんな先生がいる高校は楽しげだろうなと思ったのだった。
番組を見ていた時は気づかなかったのだけれど、知人の言及により、この渡辺憲司さんという立教新座高等学校の校長先生こそが「昨年の震災後、中止になった卒業式に出席する予定だった卒業生に向けて、素晴らしい送辞を贈った校長先生」だったということに今日気付かされた。
その送辞については下記リンクより読んで頂きたい。それなりに話題になっていたし、1年ほど前に目を通した方もいらっしゃるのではないかと思う。
「卒業式を中止した立教新座高校3年生諸君へ。(校長メッセージ)」
1年ぶりに読んで改めて文章が心に染みいると共に、本当に本当に立教新座高等学校の学生たちは恵まれているな、実に羨ましいものだと感じ入ったのだった。しかしと同時に疑念も浮かんでいたことも思い出す。
当の学生たちは、この価値に本当に気付けていたのだろうか。この送辞を本当にありがたく受け取ったのだろうか。校長相変わらず話うざいとか読みにくいとか小馬鹿にしている学生はいなかったのだろうかと、自分の高校生時代を振り返るにつけ思いを馳せずにはいられないのだ。
自分が高校生、あるいは中学、そして大学の頃は実に生意気であった。今思い起こせば様々な素晴らしい先生と出会っており、どう考えてもその環境に感謝し、学ぶべきことは学び、吸収できるところは吸収し、その恵まれた環境を享受すべきであったと思われる。しかし若く浅薄な私はその価値に気付くことが出来ず、わかったような風でああだこうだと先生を批評し、まともに話も聞かないままに時間を費やしていた。
実にもったいなかった。その当時与えられていたチャンスを、全く享受出来なかった。しかし、あれこそが若さだったのだと思う。価値に気付けずに残酷に切り捨てられる浅薄さこそ、若さなのだと思う。
今の私からしてみれば、あの頃の自分はただただ恥じ入るばかりだけれど、まあ、あの若い時代があるからこその自分なので、後悔はない。後悔はないが、自分の昔の判断力には全く信用が置けないし、そうやって反省し続けるうちに「若くして◯◯」「若いのに◯◯」にはどれほどの価値があるのだろうかという疑念を持つようになった。「若い」ということを外したら何の意味もない実力ではないのだろうか、大した実力もないのに「若い」ということで点が甘くなっているだけではないだろうか、その評価は自分の実力をきちんと表しているのだろうか、自分の発言は同世代のコミュニティの内輪受けではなく本質を捉えているものなのだろうか、と不安は次第に大きくなる。
女子大生ブロガーは女子大生で無くなった時も価値のあるブロガーとして存在できるのか。◯◯世代は、その世代が若さを示さなくなった瞬間でも価値を持つフレーズとして効くのか。若い感性とやらは、そこに若さがなくとも、価値を生むアイデアを生み出しているのか。老害と感じる状況は本当に老害なのか、若害ではないと言い切れるのか。
今私は、ある場所では若い扱いをされ、別の場所では一番の古参扱いになったりするという微妙な年齢のまっただ中にいる。本当に若かった時の言動は、浅薄さもふくめそれこそが若さであると笑い飛ばすこともできるが、さすがにもうそういう歳ではないだろう。自分が行ったこの判断は正当か?自分が受けたその賞賛は、自分が獲得したその共感は、社会的に見て真に評価されるべき実力か……?
そんなことが、今日こうやって再び渡辺憲司さんの送辞を読み返した結果、頭の中を巡り続けたのだった。
そのものの本質や価値がわからずに切り捨ててしまう残酷さを、若さと呼ぶか馬鹿さと呼ぶか。もう若くないとは馬鹿さと捉えられるようになることだと、年女である今、深く心に刻む、そんな週の終わりである。