もう昨年末のこととなってしまったが、輪るピングドラム全24話が完了した。この半年間、眠い目をこすりながら金曜の深夜に見続けたアニメが終わってしまった。
個人的には、元々のペンギン好き属性をくすぐるような4匹の可愛さに完全にやられて、ストーリーそのものそっちのけで無条件に受け入れていたことは否めない。何だかよくわからないまま終わっても「まあ今日もペンギンは可愛かったからいいか(;´Д`)」と流していた。
でも、本当に本当に終わってしまった。
ペンギン4匹に萌えることで、結果的に刹那に意味理解をやり過ごして逃げ続けた半年間は終わってしまった。
様々な符号、暗喩、寓話的表現。様々な伏線、謎、フェイク、あるいはこちらの思い込みなだけで伏線でも謎でもなかったもの。何がどのように回収され、解決され、結局どういうストーリーだったのか。根底にあったテーマ、監督が伝えたかったのは何なのか。
解くべき問題は山のように積まれていた。
しかも、輪るピングドラムが積んだ山は大層高かった。
ネタバレサイトを読み漁るのもいいな、と思った。
考察ツイートを探しまくるのもいいな、と思った。
でも、自分でも考えたい、自分なりの結論を出したいと、沸き上がってくるものがあった。結果私は、年末年始ひたすらペンギンのことばかり考えて暮らすことになった。そうして至った自分なりの結論が、以下である。
(`・Θ・´)以下、壮大にネタばれしつつ進行…(・Θ・)
最後ペンギンは、4匹揃って二人の少年の後ろをひょこひょこ歩いてついて行った。
私はあれに、どうにも引っ掛かってしまったのだ。
最後のシーンだからこそ気になる。
適当に4匹並べたのではないだろうと勘ぐってしまう。
「ペンギンは4匹揃っているのが美しい形だった」のか?
「ペンギンは4匹揃っているのが本来の形だった」のか?
何故?
輪るピングドラムは宮沢賢治の銀河鉄道の夜がモチーフだと言う。
実際、再三登場した地下鉄社内が突然暗転し不思議な光で満たされるのは、銀河鉄道の夜に出てくる描写を形にしたかのようだ。
第一話そして最終話で登場する二人の少年は、銀河鉄道の夜におけるりんごの役割を語りながら通り過ぎる。最終話では「蠍の炎」という言葉も、そして実際自分の身を代償にして焼かれてしまうシーンも現れる。冠葉と晶馬はカムパネルラとジョバンニをもじっているのだろうし、真悧はザネリだろう。
銀河鉄道の夜では現世と異世界を結ぶ出入り口として「石炭袋」という言葉が出てくるが、これは今で言う暗黒星雲のことで「空の穴」という呼び名もある。大量の図書が並び、正に現世と異世界の中間のように登場する「空の孔分室」もここから来ていると思って間違いない。透明な存在の象徴としてあふれるガラスの破片は、銀河鉄道の夜、あるいは他の宮沢賢治作品に出てくる水晶の欠片をひどく思い出させる。
……まあ、ここまで揃っていれば間違いなく銀河鉄道の夜は「物語に関係有るもの」だろうと結論づけられるだろう。
しかし考えても考えても銀河鉄道の夜と4匹の関係性は見いだせない。
……意味は、ないのかもしれない。
本筋とは関係ないパーツなのかもしれない。
考え過ぎなのかもしれない。
そんな風に切り捨てようとした頃、ふと突然思い出した話があった。
ギリシャ神話のふたご座の話だ。
ふたご座の神話はカストル(兄)とポルックス(弟)が主人公だ。
スパルタの王妃レダが、白鳥の姿をした大神ゼウスと交わって2つの卵を生み落とす。1つの卵からは兄カストルと姉クリュタイムネストラ、もう1つの卵からは弟ポルックスと、妹ヘレネの4人の子供が誕生する。このうちカストルとクリュタイムネストラは普通の人間なのだが、ポルックスとヘレネはゼウスの血を引く不死の身体なのだ。
カストルとポルックスの兄弟がとても仲良く育つ中、ある日戦いで兄カストルが死んでしまう。弟ポルックスも負傷するが、不死の体なので死ぬことはなく、ただただポルックスは兄の死を激しく嘆き悲しむこととなる。父ゼウスが哀れに思い、ポルックスを天上に連れて行って神の一員にしようとするのだが「兄と一緒でなくては嫌だ」と応じない為、仕方なくゼウスはカストルにポルックスの不死性を半分分け与え、1日おきに天上界と人間界で暮らすことにするのだ(最終的にはやがて二人は星になる)。
酷く似ているではないか。
そもそも双子の話であること。
冠葉と真砂子、晶馬と陽毬と男女がペアになっているあたり。しかも兄(冠葉)ペアの方は普通の人間であることに対し、弟ペアの方は神の子(教祖の子、扱い)であるあたり。先に死ぬのは兄、命を分け合うのは弟のあたり。双子が最後半分(神話では日替わりの存在、輪るピングドラムではさらに子供化=年齢が半分?)になるあたり。
「銀河鉄道の夜がモチーフ」に引っ張られすぎていたけれど、実はストーリーの根底にあったのはふたご座の神話の方だったんじゃないだろうか?
そんなことが引っかかりつつも、まずは銀河鉄道の夜を読もうと青空文庫に手を伸ばした。ちゃんと読むのはおそらく25年ぶりといったところか……。小学生低学年以来、のような気がする。それぐらいの昔だ。
さて読み終わって最大に驚いたのは、私が記憶していた銀河鉄道の夜と、現在発行されている銀河鉄道の夜は相当違う話という事実だった。
何せ、物語のキーマンが一人消えているのだ。さらには、カムパネルラは死んだか死んでないかわからない形でぼかされて終わっていたのに対し、明確に死んだことを予感させて終わるのである。あまりの違いっぷりに自分の記憶違いを疑ったが、調べてみるとどうやら私の記憶は記憶で確かなようだった。
宮沢賢治は、銀河鉄道の夜に関しては全部で4つの原稿を残している。1980年代に研究者たちによって最後の第四稿を中心に編纂が行われ、それが現在出回っている銀河鉄道の夜という作品だ。しかしそれより前は、第一稿〜第三稿も含めて混濁した、かなり適当な編纂のものが出回っていたそうだ。1976年に生まれ、小学校低学年の頃に図書館で銀河鉄道の夜を借りた私は、おそらくその混ざり合って適当な旧バージョンを読んでいるのである。
そんな訳で、改めて新旧両方のバージョンを入手して読みなおしてみたが、いやはや相当異なっていた。
旧バージョンでは、物語の狂言回しとしてジョバンニが信頼を寄せる「博士」が登場し、銀河鉄道にジョバンニをのせたのは博士の実験であり、ジョバンニの思慮を深くするために役立ったという様な展開で終わる。カムパネルラは確かに途中で鉄道から消えてしまうが、その後それについて特に言及されることはない。こどもの頭で読んでいれば、ジョバンニが不思議な体験をした話、として収まってしまうものであり、カムパネルラについても「消えたなあ」ぐらいのもんなのである。
しかし新バージョンでは、カムパネルラのお父さんは明確に息子の生存の諦念を口にする。「もう駄目だめです。落ちてから四十五分たちましたから。」この上ない衝撃である。そもそもこのお父さんの冷静過ぎる態度に驚愕することはさておき、このセリフによって、銀河鉄道で消えた人たちはすべて死者なのであるという気付きが最後にやってくる。
私の記憶していた銀河鉄道の夜とは一体何だったのか?
おかげで私は銀河鉄道の夜だけでなく、宮沢賢治周辺の書籍まで各種読み返す羽目になってしまった。銀河鉄道の夜だけでなく、私が記憶していた宮沢賢治とは何だったのかと。
しかし同時に思ったことがある。輪るピングドラムの監督、幾原邦彦さんは私よりさらに12歳上の人だ。同じ体験をしなかっただろうか? モチーフにしようと思って読みなおしたものが「自分の記憶していたものとぜんぜん違う」という体験を。そして、宮沢賢治全体を調べる羽目にならなかっただろうか?輪るピングドラムを一視聴者としてみている私でさえもこうなのだから、作り手側である監督がそうでないわけがない。
さて話は戻る。ふたご座のギリシャ神話だ。
宮沢賢治は星座と宇宙の話が酷く好きで、星座をモチーフにしたギリシャ神話も好んだし、自分で星座に物語をつけることもあった。そして物語として好んだのは、無償の愛の話。
銀河鉄道の夜に登場するさそり座の炎の話は、宮沢賢治自身がつむいだ星座をモチーフにした無償の愛の話。ふたご座のギリシャ神話の話は双子の弟による兄への無償の愛の話だが、宮沢賢治自身が特に好んだ神話だったという。(ちなみに宮沢賢治による「双子の星」という作品は誤読されやすいがふたご座の話ではない)
もしや、ストーリーの軸はギリシャ神話のふたご座の話であり、その上にモチーフとして銀河鉄道を彩らせただけなのでは?
ではテーマは?
単純に考えて無償の愛……?
いや、本当に?
アニメ放映中盤頃、テーマは記憶だと思っていた。記憶消去の赤玉、記憶復活の青玉が出てくるし、運命の乗換とは記憶の抹消的な話なのではないかと捉えていたのだ。
しかし、考えていくうちにタイトルの「輪る」にひっかかる。
それは「記憶は輪らない」から。
記憶はデータベースであり、蓄積されるもの。記憶をつないでもストーリーになるだけで1方向のベクトルに伸びるのみだ。涼宮ハルヒの夏休みのように、あるいはほむら暁美の最後の1ヶ月のようにループしない限りは輪らない。そして輪るピングドラムはそんなループはしない物語だった。
輪っていたのは何だろう?
物語のテーマを考えるにあたり、ここは重要なポイントなのではないかと考え始めたのだ。
輪るもの。
例えば関係性。
最後に運命の乗換をする前は、実は3人で1セットになっている。そして3人の内1人or2人が、他の3人セットと重なりあい、3人セットの関係性の輪が広がっているのだ。
冠葉と晶馬と陽毬、晶馬と陽毬と苹果、苹果とお父さんとお母さん、お父さんと新しいおかあさんとその子供。
冠葉と晶馬と陽毬、冠葉と陽毬と眞悧、冠葉と眞悧と真砂子、冠葉と真砂子とマリオ。
苹果と桃果と田蕗、桃果と田蕗とゆり、田蕗とゆりと苹果、田蕗と苹果と晶馬、苹果と晶馬とゆり。
冠葉と晶馬と陽毬、陽毬とヒカリとヒバリ。
あげていけばキリがない。とにもかくにも、3人1セットの関係性が他の3人1セットと絡みながら、時には素敵な関係として広がり、時には重苦しい関係として重なりあうのだ。
しかし運命の乗換の後は関係性の重なりは全て消え、2人組の孤立したペアになってしまう。
苹果と陽毬、真砂子とマリオ、田蕗とゆり、晶馬と冠葉を彷彿とさせる少年2人、ダブルHのヒカリとヒバリ、あるいは物別れになったが眞悧と桃果。
運命の乗換の瞬間、鉄道の連結が切れるのが全てを象徴するかの様に、重なり合っていた関係性は絶たれてしまう。そしてそれを象徴するかのように、タイトルの出るエンドカットで「24」という数字の周りを巡っていた輪は消えている。
人というものは普通、生きている限りは何らかのしがらみが生まれてしまうものだ。血縁、地縁、同級の縁、仕事の縁、趣味の縁、様々なところで発生する繋がりは日々面倒なものを運んできつつも大切なものでもある。
陽毬が「生きているのは罰をうけるということ」と言ったけれど、でも罰という言葉の禍々しさに対して、例にあげられたのは日常的なちょっといらっとする程度のささいなことばかりだった。自分周辺に広がる縁が運んでくる、日々のちょっとだけ面倒だなあと思うこと、しがらみを「罰」と呼び変えたのではなかろうか? そしてそういった縁は、打算ではなく小さな無償の愛の絡み合いによってつながれている。
物語では最後、運命の乗り換えをしたらその面倒な縁は切れてしまった。フィクションにありがちなご都合主義はなりを潜め、最後の最後まで犯罪者の子供は犯罪者という重くのしかかり続けたしがらみでさえも、最後は絶たれた。
しがらみはなくなり自由快適な関係になった。
でも一方でさみしくない?
縁は面倒な事、辛いことも沢山運んできたけど、でもさみしくない?
実際作中では、縁を切られた子供たちはこどもブロイラーに送られ透明な存在へと向かっていくシーンが繰り返される。陽毬が同様の方向に進もうとした時は酷く切なかったではないか。そして晶馬が新しい縁を陽毬と繋いでくれたときは酷く嬉しかったではないか。その後陽毬に、犯罪者の子供というまた別の縁が降り掛かっていたのだとしても。
面倒な事が全てなくなった世界と、
しがらみだらけだけれども縁がある世界。
どちらが充実して幸せなんだろう?
まるで現代日本が抱える無縁社会と有縁社会の問題を象徴しているかのような。
こどもブロイラーは無縁の暗喩だったのかもしれないとも気付く。
そんな中ふと、細田守監督が数年前サマーウォーズについてとあるイベントで話していたことを思い出す。
「別にセカイ系を否定するものではないのだけれど(個人的に好きな作品はたくさんある)、目の前のお父さんを克服したら幸せになるとか、目の前の敵を倒したら世界平和がやってくるとか、世の中はそんな単純にはできていないと思う。主人公は様々な関係性によって支えられていて、それぞれの関係性を解決しながら成長することによって、その先の幸せを獲得できるということを、大家族を通して描きたかった。」と。
輪るピングドラムもまた、形を変えた同様のメッセージを感じるのだ。
結論はないのだろう。
結論はないのだけれど、どっちがいいんだろうって考えて欲しい、悩もうよ、あがこうよ、ってメッセージだったのではないかなあ、と思ったのだ。
現実の世界では、輪るピングドラムの世界のように都合よくしがらみは切れない。生まれつきの縁と、時を経ながら作った縁と共に生きていくしかない。だからこそ、目を背けてはならず、一生向き合うってことが生きるってことなんだと。
そして宮沢賢治。彼は「ほんとうのしあわせ」を一生かけて考えた続けた人であり、まさに社会と人の関係、社会システムが生む歪と人の不幸を悩み続けた人だった。彼の人生もまた、輪るピングドラムのテーマの根底に据えられていたものではなかったろうか。
奇しくも2011年を象徴する一文字が「絆」であったように、2011後半を彩ったアニメ輪るピングドラムもまた、縁を巡る……要は絆を巡る話であったのではないだろうか。ただし絆にも、良い面と悪い面があり、その上でどう捉えるかを考えなくちゃいけないんだ、と投げかけていたのが新しかったのではないかと思う。単純な無償の愛、単純な縁・絆の礼賛では終わらない所が。
物語では最後、縁が紡ぐ輪が綺麗に切れて2人組だらけになってしまったけれど、くまのぬいぐるみを通じて陽毬ちゃんとの重なりがかすかに残る。
そしてそのぬいぐるみが運んだ縁は、最後ベルトコンベアから落下の方向に進んでいた1号2号の箱に、3号が入ったことによって逆流して取り戻したものだった。あれはとても希望の象徴のように見えるシーンで、それはやっぱり、縁は……絆はあったほうがいいよ、と言われているように感じられたのだった。
輪るピングドラムは絆と向きあいながら前に進む物語である、
そう、まとめたいと思う。