梅雨である。
気圧が低いのである。
気圧が低いと古傷が痛むのであって、ゆえに体の節々の調子が悪く、全体的に緩慢な動作となり、のろのろとダルーイ感じとなり、そのダルさがやがて気分的なものにまで繋がり、要は「体調が思わしくない」のである。ちなみに同じ理由で、台風の季節とか雪の季節なども具合が悪かったりする。全て気圧の変化から来る骨に対する影響で、その骨の古傷とは、肋骨と膝と肘である。
さて、ただでさえこう、体調が思わしくなくずーんと暗ーく澱んだ心持ちになっているのに、さらに輪をかけて気鬱にさせるのが建物の色の彩度の低下である。
その昔、横浜に勤めていた頃、象徴的な建物と言えばランドマークタワーであった。そして、ランドマークタワーの外壁はグレーっぽい石でできている。石は水を含む。石であれ布であれ、自然物というものは水を含むと色が暗くなる。故に、雨が続くとランドマークタワーの外壁全体が水を含み、ランドマークタワー全体が「暗めのグレー」になっていく。普通の季節なら、一回雨が降って暗くなってもその後の晴天で乾き、乾燥した白っぽい「石らしい色」に戻るのであるが、梅雨だとそうはいかない。
連日の雨で水分含有量は日増しに増え、たまに雨が降らなくても湿度が高く、含んだ水分を乾かすには至らない。そしてどんどん建物の色は暗くなり、そしてその暗さの効果をさらに高めるかのように、暗く低い雨雲が空を覆う。
そして、ランドマークに限らず石やうちっぱなしのコンクリで出来ている建物は総じてそのような暗さを梅雨の時期に保有しつづける。そんな暗さを保有する建物がそこら中に溢れる。
私個人の心持も暗ければ、街も暗い。
全てが澱んでいるようなこの気鬱なかんじ。
だるい。
こうして梅雨がやってくる度に頭に浮かぶのが、木の建物と石の建物と雨の関係である。
修学旅行で東大寺に行った時、私は生憎の雨と相成った。が、同じ観光地でも、ロンドンやニューヨークの雨は気分を気鬱にさせたが、奈良や京都の雨はそれはそれで風情として捉えられるような気がしたのだった。思い起こせば、木造住宅の祖母の家ですごす梅雨や夕立というものは、外で遊べないという不満はあったものの、それ自体はさほど気鬱ではなかった気がする。
そうやって記憶をたどっているうちに、湿度が高い南国の地もまた、建物の多くが木で出来ていることを思い起こす。頭に浮かぶのは、水を含んだ状態の木が、艶こそ増すものの気分を暗くさせるさせるような彩度の低下には至らない光景だ。
ああ、温暖湿潤である日本において、石で出来た建物に囲まれて暮らすと言うのは、生物の営みとして何か反する方向へは行っていないかと、雨が続く季節になるたびじんわりと思うのである。まあ、こんなことを鬱々と考えてしまう事自体既に、梅雨という季節に負けているだけなのかもしれないが。