こんな季節に死ぬなんて、まるで西行の「願わくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月の頃」のようだねえなんて、親族同士では言っていました。
https://www.asahi.com/articles/DA3S13440296.html
色々心配の声もいただくのですがとても元気です。
これは父と私の関係性が、一般的な父と娘とは違う距離感と緊張感だったからかもしれません。
そして母と父、親族と父との関係性もまたきっと独特で、葬儀にまつわるあれやこれやも基本的には厳粛さや悲しみにあふれるものというよりも、どこかのどかで、どこか愉快で、場合によっては事務的で、でもひっそりもしており、他人が見たらもしかしたら不謹慎と言い出す場面もあったのかもと思えるようなものでした。
波を撮り続けた写真家であった父の戒名には「波濤」の「濤」と、ガラス・レンズを表す「玻璃」の「玻」が入りまして「あらなんだかいい名前をもらったねえ」という感覚です。
逐一書くと本当に不謹慎と怒られそうなのでここには書きませんが、面白エピソード満載なので私と直接遭遇した人は笑って聞いていただけると幸いです。
おそらく中学生ぐらいだったと思います。
これは父と私の関係性が、一般的な父と娘とは違う距離感と緊張感だったからかもしれません。
そして母と父、親族と父との関係性もまたきっと独特で、葬儀にまつわるあれやこれやも基本的には厳粛さや悲しみにあふれるものというよりも、どこかのどかで、どこか愉快で、場合によっては事務的で、でもひっそりもしており、他人が見たらもしかしたら不謹慎と言い出す場面もあったのかもと思えるようなものでした。
波を撮り続けた写真家であった父の戒名には「波濤」の「濤」と、ガラス・レンズを表す「玻璃」の「玻」が入りまして「あらなんだかいい名前をもらったねえ」という感覚です。
逐一書くと本当に不謹慎と怒られそうなのでここには書きませんが、面白エピソード満載なので私と直接遭遇した人は笑って聞いていただけると幸いです。
おそらく中学生ぐらいだったと思います。
ある日本棚の手前に積まれていた、父が最近読んだ本の山の一番上を手に取ると、それは長崎原爆投下後に何が起きていたのかをまとめた本でした。
どこの工場がどのように破壊されてそこには何人いたのかとか、そういった事実の調査結果が淡々と綴られているものだったのですが、ページを捲っているうちに「○○小学校、○年生、○時○分、全員死亡」という記述に、赤鉛筆で線がピッと引かれているところに遭遇しました。
父は本にあまり線を引くタイプではなかったので、その瞬間「ああ、これが父の疎開前の同級生のことなのだろう」と思いましたし、この本を買わずにはいられなかった心境と、この箇所に線を引かずにはいられなかった心境を、私はどんなに頑張っても想像すらできないと衝撃を受けたことを覚えています。
それほどに強烈な存在感のある赤線だったのです。
そしてまた父は「死んだらどうせ灰になる、どんな人間でもみんな同じだ」「人間は必ず最後は一人だ、誰も頼りにならない」と事あるごとに私に語っていました。
さらには「自分も母親もいつ死ぬのだかわからないのだから、早く一人で生きていけるようにならねばならない」と、私の記憶に残る限り、幼稚園生の頃には既に言われ続けておりました。
子ども特有の感情的な反論には全て「そうやって感情的にしか物を言えないやつはろくな大人にならない」と跳ね返され、ひたすら冷静なる状況把握と論理的説明を求められる日々でした。
つまりは、家には常に死と背中合わせのような気配を漂わせ、娘を全く子供扱いしない父だったのです。
この「子供扱いしない」ことに対し、自分が年を経てからは感謝しているものの、子供時代にはかなりの横暴にしか捉えられないものでした。「うちはうち、よそはよそ、にも程度があるだろう」と怒り心頭で、連日父とハードバトルモード。しかもそのバトルもただの言い合いではなく、まるで禅問答を繰り返すような「本質は何だ、その答えは薄っぺらい、真剣に考えていない証拠だ」と怒鳴られ、言い返し、それが5時間続く、みたいなものなのです。
大学進学も「私がその進路に対してどれだけ真剣に考え人生を傾けているか」について父を納得させられないと、受験できないという展開にはまっており、高3の夏休み時期など受験勉強以前に父親が説得できないという状況に陥っていて、あれは今思い出しても焦燥感がぶり返します。
……いやあ、大学行けて本当に良かったなあ、あの時は本当に危なかった(笑)。
そんな父が倒れたのが2010年です。脳梗塞の後遺症もあって気力が失われてしまい、父から現実と本質と向き合う苛烈さのようなものがすっかり抜け落ちている様子を見た時、精神的には私の中では父は死んだ気がします。もともと「人間はいつ死ぬかわからない」と言われ続けていましたし、父が死ぬということの腹は昔からとっくに定まっていたのだと思います。
その後はただ、父が望むように死ぬ道に向かうロスタイムのようなもので、結果的にご飯も自力で食べられる状態のままに苦しまずにすっと亡くなったのには、限りなく本人の望みに近かったのではないか以外の感想はありませんでした。
あとはもう、本人の主張どおりに感傷的にならずに送ることが道義であろうと、ただただ淡々と進みました。
悲しいというのは、正直なところ本当に無いのです。
父は私が自我を持ち始めた頃から死んでいたとも言えるし、その自我への影響が私から消えることがないが故に死なないとも言えるのです。
多分、父と私の関係には、感傷というものが生まれにくいのだと思います。
どこの工場がどのように破壊されてそこには何人いたのかとか、そういった事実の調査結果が淡々と綴られているものだったのですが、ページを捲っているうちに「○○小学校、○年生、○時○分、全員死亡」という記述に、赤鉛筆で線がピッと引かれているところに遭遇しました。
父は本にあまり線を引くタイプではなかったので、その瞬間「ああ、これが父の疎開前の同級生のことなのだろう」と思いましたし、この本を買わずにはいられなかった心境と、この箇所に線を引かずにはいられなかった心境を、私はどんなに頑張っても想像すらできないと衝撃を受けたことを覚えています。
それほどに強烈な存在感のある赤線だったのです。
そしてまた父は「死んだらどうせ灰になる、どんな人間でもみんな同じだ」「人間は必ず最後は一人だ、誰も頼りにならない」と事あるごとに私に語っていました。
さらには「自分も母親もいつ死ぬのだかわからないのだから、早く一人で生きていけるようにならねばならない」と、私の記憶に残る限り、幼稚園生の頃には既に言われ続けておりました。
子ども特有の感情的な反論には全て「そうやって感情的にしか物を言えないやつはろくな大人にならない」と跳ね返され、ひたすら冷静なる状況把握と論理的説明を求められる日々でした。
つまりは、家には常に死と背中合わせのような気配を漂わせ、娘を全く子供扱いしない父だったのです。
この「子供扱いしない」ことに対し、自分が年を経てからは感謝しているものの、子供時代にはかなりの横暴にしか捉えられないものでした。「うちはうち、よそはよそ、にも程度があるだろう」と怒り心頭で、連日父とハードバトルモード。しかもそのバトルもただの言い合いではなく、まるで禅問答を繰り返すような「本質は何だ、その答えは薄っぺらい、真剣に考えていない証拠だ」と怒鳴られ、言い返し、それが5時間続く、みたいなものなのです。
大学進学も「私がその進路に対してどれだけ真剣に考え人生を傾けているか」について父を納得させられないと、受験できないという展開にはまっており、高3の夏休み時期など受験勉強以前に父親が説得できないという状況に陥っていて、あれは今思い出しても焦燥感がぶり返します。
……いやあ、大学行けて本当に良かったなあ、あの時は本当に危なかった(笑)。
そんな父が倒れたのが2010年です。脳梗塞の後遺症もあって気力が失われてしまい、父から現実と本質と向き合う苛烈さのようなものがすっかり抜け落ちている様子を見た時、精神的には私の中では父は死んだ気がします。もともと「人間はいつ死ぬかわからない」と言われ続けていましたし、父が死ぬということの腹は昔からとっくに定まっていたのだと思います。
その後はただ、父が望むように死ぬ道に向かうロスタイムのようなもので、結果的にご飯も自力で食べられる状態のままに苦しまずにすっと亡くなったのには、限りなく本人の望みに近かったのではないか以外の感想はありませんでした。
あとはもう、本人の主張どおりに感傷的にならずに送ることが道義であろうと、ただただ淡々と進みました。
悲しいというのは、正直なところ本当に無いのです。
父は私が自我を持ち始めた頃から死んでいたとも言えるし、その自我への影響が私から消えることがないが故に死なないとも言えるのです。
多分、父と私の関係には、感傷というものが生まれにくいのだと思います。
唯一センチメンタルなことを言うならば「俺は森永純ではなく、森永真弓の父、と言われて死にたい」と言っていたことを、叶えてあげられなかったなあということでしょうか。
いっぱしの人間に、父が死ぬまでにはたどり着けなかったなあと。そしてそれは自分の怠惰が所以であることが身に沁みてわかっているので、それだけは後悔として残っています。
ご報告は以上です。
改めてお悔やみの言葉を頂いた皆様に感謝申し上げます。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。